覚悟があるやつだけみてくれ

Twitterでつぶやくには重めの内容がかいてあります

愛という呪いをかける


愛には色んな形があると言いますが
惚れた腫れたほど多種多様で粘度が違うものです
ここでお話するのは私が思う愛のかたち
すなわち恋愛観でございます

なぁんて噺家風の書き出し
市川團十郎で脳内補完してください


私がいちばん心掛けているもの
「絶対に依存しない」
依存すればするほど苦しむ、苦しめる

恋人はディスポなんです
皮膚に馴染むならつけてればいいし、合わなくなったり壊れたら、取り替える
その程度なんだ

だか私はそれ以外を大切にしたい
友達や家族、お金は代わりがきかないから
自分を助けてくれる人だから
絶対に大事にして欲しい


みんなの大事な人
大事にできてますか

年寄り笑うな行く道だもの


訪問リハに転職して約3ヶ月。
ようやく試用期間が終わって正社員となりました。
なったんだよね…?というくらい、ぬるっと過ぎ去り仕事をする毎日です。
有難いことに人見知り大爆発だった私が徐々に皆さんの中に馴染んで雑談もできるようになったことが喜ばしい。
マトモダヨー、ジンチクムガイダヨーをアピールして信用されるまでそのくらいかかるし、やはり個を出しすぎずにいかに組織に溶け込めるかが重要だ。郷に入っては郷に従え。

前職の人と会ってきました。
いわゆる御局様、独身貴族のかた。
プライベートで会ったことはないけど職場仲良くしてくださっていて、雑談とか色々話題があって楽しかったんだよなぁ。
思ったより自分が退職した時に惜しんでもらえていたようでとても嬉しかった。
良い関係を心掛けていたのだけども
あまり喋ったことの無い人からも寂しいって言ってたと聞いて嬉しくなった。
私があそこで頑張っていた価値はあったのかな、誰かの心に残った働きができていたのかな。

泣くほど辛かった若手時代、職場で日付跨ぎ一銭にもならなかった学術活動、正解が分からずに迷走する日々、思考を放棄しては自己嫌悪する自分

ようやく自分が報われた気がした。


いまはなるべく低飛行で、最低限で、文化的な生活を送ろう。

貧困の格差とSNSの普及

こんなクソブログをたまにでも見てくれている人がいると聞いて、久しぶりに書きたくなった。季節が移ろうように、街を歩いたとき肌感で思ったこと。


前置きですがだいぶ元気になりました。
ある程度規則正しい生活と、認めてくれるパートナーの存在のおかげで人間らしく生きられています。まぁたまに死にたくなるのはご愛嬌ってことで。



ある人が恋人のことを「パートナー」と呼んでいて、すごく心地が良いなと思った。
「パートナー」というのは、男女や社会的格差、LGBTQ偏見がなく広義を意味している。「そのひとにとって大切な人」という呼称になると気付き、ふわりと膨大な選択肢があることに安堵を覚えた。
楽に生きられる人が増えますように、と願いながら私も真似てパートナーと声に出し、彼の顔を思い浮かべた。



トマト缶がついに100円で買えなくなった。そんな些細なことに物価の高騰を強く感じた。周りを見渡しても100円以下で買えていたものが買えなくなった。由々しき事態。
今の日本の経済は狂っている。いびつで汚く、経済の格差が恐ろしい。トー横や道頓堀下などは日本のスラム街だと思っている。見栄と性ビジネスが跋扈しており、パパ活や風俗がコンテンツ化されている。こんなんでいいのか日本。

SNSは簡単にみじめになれる。
周りはいい思いをしているのに、どうして自分は、と比較してしまう。
ルッキズムが横行している今、痩せて綺麗でいることが自己実現に繋がっており不健康な体重をしている。


田舎のねずみと都会のねずみ
私は田舎のねずみだけど、都会に憧れを抱いている。
時々お上りさんをするのが、1番幸せでいられるのかもしれない。
この煙草と排気ガスの空気は、長く吸ってられないや。


なんか今日ケータイ小説みたいキモイな。
いいたいことの半分も言えてないけど、疲れてきたからおわり。

自己否認、自責感情


ここ最近はブログの下書きばかりが増えて自分の感情や想いが昇華できてないと思ったので、文章がある程度まとまってたものを出してみました。
とても鬱々としていいですね。
いい感じに死にたくなってました。


最近の私のテーマは「なんでこんな自責思考が強くなってしまったのか」です。
なってしまったものはしょうがなく、対処療法的に現在の症状を緩和させるために認知の歪みを少しづつ正して生きやすくするしか方法がないみたいです。
アドラー心理学で間違った学習をした結果、こうなったような気もしなくもない。

言いたいことが分からなくなってしまった。
前は文章をよく推敲して投稿していたが今回は思ったことを書き散らす方式に変更だ。

とどのつまり、私は思考停止をしたのではないか。原因を追求し試行し効果検証をする、という新人を教育する時に言っていた決めゼリフを全く自分ができていなかった
のではないか。
考えるのを諦めた、学習を止めた。
だから「自分が悪い」と一括りにし検証を放棄した。全くもって情けない話だ。
そこを掘り下げることができ、再評価と検証を実施していれば自分個人攻撃対象にするのではなく「問題点」を追い込ればよかったのか。

しっくりくるような、こないような。
自分で考える仮説なので自分の想像の域をどうしても越えられない。
最近はすこし客観的考える、反証によりネガティブな思い込みが少し緩和できるような気がしているが、長年培った自責パターンの自動思考はなかなかしぶとく私に居座り続けそうである。


それより強い問題点が私にはある。
依存と献身、自己犠牲。
相手の負担にならないように工夫したり考えれば考えるほどドツボにハマり、結局自分で自分の首を締める結果になる。
依存先を増やそう。人間じゃなくてもいい。
趣味でも、なんでも。

価値観は環境ガチャだろ

今日、ものすごく死にたくてもがいています。いろんなことで気を紛らわせようとしていますが、キマった瞬間に死を選びそうな気がして怖いです。
私の逃避モノレールはどこにも寄らずに一直線です。ああ思考を手放して楽になりたい。考える葦なんてなりたくなかった。

私のお気に入りの場所が自宅ベッド横の窓の真下なんですよ。
基本的に換気をしたい症候群で窓は開けっ放しが多いんですけど、そこは涼しい風が吹いて淀みのない空気が入ってきます。
そこで呼吸するのがいちばん安心できます。わたしはここでなら生きられると思う瞬間。

最近の近況なんですが彼氏がすごくいいひとなんですよ。
私なんか勿体ないくらい、優しくて頭が良くて穏やかで生活能力がカスってところが欠点ですかね。でもとても大事にしてくれてとってもだいすきなんです。彼氏がいれば幸せになれると思った。でも依存なんてしたくないし、年上だから彼を幸せにしてあげたいってずっと思っている。もしも数年付き合って別れたとしてもわたしは絶対に彼を恨まないし、素敵な思い出ありがとうっていう気持ちを胸に実家に引っこもうと心に決めています。



6/25のわたしの記録

魔法少女についての考察

昭和の女児向けアニメは、平凡な女学生が不思議なグッズを偶然手に入れ、敵を倒す時にコンパクトやミラーを使用し変身をして問題を解決するものが多い。その時代では「違う自分に変身する、又は変身をしたい」という願望は、コンパクトを開く行為で表現されており、「可愛い私を再確認」というよりも「パワーアップした私」に変換されている。
変身シーンもいろいろ装飾が着くことを考えるのであれば、やはり「化粧、おしゃれ」というものは自己肯定感を上げる行為であり、女の武装であると想像する。

しかし、平成を代表する女児向けアニメであるセーラームーンおジャ魔女どれみを境に時代背景とともに変わっていったのである。
基本的に彼女らは「選ばれた存在」であり、「特別な力」を持っている。グッズも最初は丸い形状を保っていたが徐々にステッキ化し、敵を「こらしめ」勧善懲悪を推進している。プリキュアシリーズは明らかな物理攻撃があり準戦闘シーンがみられるようになり、自分の意志で悪いものを排除するようになったのだ。


この間、なにがあったのだろうか。
男尊女卑の時代から女性の権利を主張されはじめた。特に平成で男女共同参画機会法が施行され、女性の社会参加とともに女性の就労の幅が増えるようになった。それだけではないだろうが私の今の頭ではそれしか思い付かない。とにかく女性が前線で働いてもよい時代へと変わったのである。



何が言いたいかまとめられなくなって
眠くなってきたので寝ます。





わたしにとっての魔法のコンパクトはミラコレで、一生大好きです

頑張れない自分


最近また頑張れなくなっています。
なんだか真っ当に生きるのを半ば諦めているような気がします。
だから働いてお金を稼ぐことも大して気が向かないし、仕事で成功する自己実現も興味が薄れています。
唯一わたしの良いところだと思っていた知識欲もなく、この世の森羅万象は目の前の薄い板に聞けばわかることなので努力をしたくなくなりました。

一言でいうと無気力。これに尽きますね。

だから最近の金遣いは荒くて、即物的な快楽さえ手に入ればよいと思ってしまいます。長期的な考えができません。
今、この瞬間、私や誰かが笑ってくれたらいいや。


しゅるるるるるる〜
7年後のわたしはどこにいるのでしょう